【第一話・Arch】

 一九九七年夏、二人の高校球児が、日本中の野球ファンを熱狂させた。
 阪神甲子園球場は、その日も満員だった。一、三塁側アルプスは言うまでもなく、バ
ックネット裏、外野席まで、ぎっちりと埋め尽くされていた。彼らの注目は、二人の若
き高校球児だけであった。
『二回裏、暁高校の攻撃は、四番センター桜庭君』
 アナウンスがその名をコールすると、観客は狂気に駆られた様に熱狂する。敵味方問
わず、スタジアム中が狂喜の渦に巻き込まれる。
 桜庭 直也(さくらば なおや)が左打席に入る。カメラマン達は、すっかりスタン
バッている。プロ十二球団のスカウトも、その目は一心に桜庭を見つめ続ける。
 暁高校のベンチも、応援や檄を飛ばす必要すら無いとしているのか、桜庭を見守るだ
けである。こうなっては、面白くないのは桜庭と対峙する投手である。こうなったら、
意地でも桜庭を三振に打ち取ってやろうじゃないか、と言わんばかりの気迫を発する。
桜庭はその気迫に物怖じする事なく、むしろその気迫を上回るような威圧感を相手に与
えるのだった。
 投手が足を上げ、渾身のストレートを投じる。球速は146km/h、外角低目に決まる
最高のストレートだった。桜庭はしかし、それを逆らう事無く、レフト方向へ打ち返す
。白球が弧を描いて舞い上がっていく。打った瞬間、左翼手は微動だにしなかった。そ
れどころか、内外野、打たれた投手でさえも、誰も打球を追っていない。スタンド・イ
ンを覚悟した。
 打球はレフトスタンド上段で跳ね上がった。狂喜乱舞する暁ナイン、がっくり項垂れ
るマウンドの投手。ガッツポーズをして、ダイヤモンドを回る桜庭。
 全国高校野球選手権決勝戦、試合は、二回裏に早くも動いた。

 『十年に一人の逸材』が、果たして毎年何人出てきた事だろう。
 夏の全国高校野球選手権、所謂『夏の甲子園』。その決勝戦、本当の『十年に一人』
が、二人も現れたのだ。即ち、暁高校四番打者桜庭と、五番打者高橋 健司(たかはし
 けんじ)である。
 親友でありライバルである二人は、切磋琢磨し合いながら、お互いを高め合ってきた
。そして、その実力は、名門と名高い暁高校で、一年生の時から中堅手と一塁手のレギ
ュラーを獲得する程であった。決して天狗にならず、指導者のアドバイスにも真剣に耳
を傾け、何より、野球を心から愛する二人は、校内外から人気を博していた。プロ野球
十二球団のスカウトが注目する二人、桜庭と高橋。決勝戦でも、彼らは台風を巻き起こ
した。

 二回裏、桜庭と高橋のアベックアーチで先制した暁高校だったが、四回表、あっさり
と同点適時打を許してしまう。尚も二死二塁で逆転のチャンスだったが、桜庭のファイ
ンプレーで何とか同点で凌いだ。
「お疲れ」
 桜庭が、暁高校エースピッチャー大隈 久志(おおくま ひさし)の肩をぽんと叩い
て、言った。
 一塁ベース方向から一足先にベンチに戻っていた高橋も、大隈を励ました。
「ただラッキーなヒットが続いただけさ。次の俺と直也の打席で勝ち越して見せるさ」
「その通り! さ、こっちは二番からの好打順よ。頑張って勝ち越しよ!」
 女子マネージャーの河内 百合(かわうち ゆり)も、暁ベンチを盛り上げる。
 四回裏、二番から始まる攻撃。二番、三番が打ち取られても、必ず四番に回る。先制
のアーチを架けた、四番センター桜庭に。
 ベンチの期待は高まる一方だった。だが、桜庭とて常にホームランを打てる訳ではな
い。それはナインも、観客達も、百も承知であった。しかし、同点のこの場面、周囲の
期待は否が応でも高まっていく。
 桜庭は、初球を狙った。内角低目、ボール一個分外れたボール球。バッテリーは、フ
ァールでカウントを稼ぐ心算でいた。
 白球は、ファールグラウンドを転々としている。……筈であった。だが、白球は、フ
ェンスに向かって一直線に飛んでいるではないか。
 中堅手と右翼手が打球を追いかける。打球は遂に、フェンスに直撃した。それを右翼
手が拾う。打った桜庭は既に二塁を回っている。右翼手が三塁に向かって送球する。桜
庭はひたすら三塁ベースを目指す。土煙を上げて、スライディング。送球より早く、三
塁ベースを桜庭の足が襲う。審判の手は、横に大きく開いた。
 桜庭の三塁打で、二死から暁高校に勝ち越しのチャンスが、高橋に巡ってきた。
 二死三塁のチャンスに、観客は湧いた。この場面で、五番高橋。守備、走塁、ミート
の上手さは桜庭に譲っても、パワーと得点圏打率なら、高橋の方が上。つまり、このチ
ャンスこそが、高橋の本領を発揮する絶好の場なのだ。
 高橋が暁ナイン、観客の期待を一身に受け、右打席へ。高校生の物とは思えない、鋭
い眼光で、対峙する投手を睨む。
 得点圏に走者を置いた高橋にとって、どのコースにボールが来ようが、関係なかった
。来た球を打つ、ただそれだけ。
 高橋の打球は、バックスクリーンへ向かって一直線のライナーで飛んでいった。中堅
手は、既に打球を追っていない。
 勝ち越しのツーランホームラン。四回裏、暁高校は、再び二点のリードを奪った。
 五回以降は、大隈が六者連続奪三振など、追加点どころか、二塁を踏ませない見事な
ピッチングを披露。打線も、桜庭、高橋に続けと大爆発、三回の攻撃で七点を奪った。
「しっかしよく打つねー、ウチの打線は」
 高橋が思わず唸る。
「そうだな……」
 桜庭は高橋の方を向く事なく、自分のグラブをタオルで磨いている。大体の汚れを落
とすと、グラブを自分の隣に置いた。
「本来、才能のある奴らなんだ。ここに来るまでにやってきた練習も、文句の付けよう
が無い。きっかけさえあれば、後は爆発するのみさ」
「お前って、相変わらずクールだな」
 高橋が苦笑いをして、桜庭の性格を形容した。
「お前はいつもホットだがな」
 駄洒落の心算か、桜庭が高橋を見てふっと笑った。
 と、二番打者の木村が元気の無い様子でベンチに帰ってきた。大隈は短く、
「桜庭、ネクストサークル」
 それだけ言うと、ベンチに腰を下ろした。
 桜庭がネクストサークルから見ると、打席には三番打者の大隈。状況は、一死一、二
塁。
 先程の木村の様子を見る限り、どうやら送りバント失敗と言ったところか。
 大隈のカウントはツーナッシングと、追い込まれていた。大隈は、スリーバントを敢
行、見事に成功した。
 状況は変わって、二死二、三塁。打席に向かうのは、四番打者、桜庭 直也。
 ここで桜庭を敬遠して満塁にしたところで、次に控えているのは、驚異の得点圏打率
を誇る高橋。しかし、桜庭と勝負しても、まず間違い無く二点を取られてしまう。バッ
テリーにとって、胃が痛くなるような状況であった。
 苦心の末、捕手が要求した球は、嘲笑うように、左中間に転がっている。外角低目の
ストレートを、流し打ち。二回裏、同じコースをホームランにされた事を忘れた訳では
なかった。だが、投げる球が無くなったのでは、如何しようも無い。バッテリーどころ
か、内外野、ベンチでさえ、試合を諦めてしまった。

 甲子園に、試合終了を告げるベルが鳴り響いた。
 観客は総立ちになっている。
 空からは、太陽の光が、雲に遮断される事無く球児達を照らす。
 暁高校校歌を熱唱すると、桜庭 直也の高校生活最後の試合は、幕を閉じた。
 16−2。暁高校の圧勝で、一九九七年の夏の甲子園は終わった。