第1章 終わりから始まりへ

−1994年 1月−
プロ野球選手は2月のキャンプに向かって自主トレに励む月だがそこに香取の姿はなかった。
香取「…………ふう」
遥「今年から指導者として頑張るんだからお手本になる様に頑張らないとね!」
香取「分かってる。それに涼にも心配かけたからな。父親としてももっと頑張らないとな!」
遥「えへへ」
香取「なんだよ?」
遥「荒れていた時期に比べて良い顔する様になったなって」
香取「荒れてはいなかっただろう?」
遥「私達の前ではね。でも1人の時は」
香取「(表面上じゃ考えなしに見えるのに)相変わらずしっかりしてるな」
遥「そうだよ。それに旦那さんがいっぱい稼いでくれてるからね。数年は大丈夫だよ!」
香取「これから先もだ。正直、俺の様な若手がいきなり1軍のバッティングコーチなんてって思ったけど、野村さんにあそこまで言われた以上、必死にやるつもりだ!」
遥「涼や私の為にもね」
香取「もちろんだ!」
遥「肝心の涼は寝てるけどね」
香取「まだ3つだからな」
遥「それじゃ頑張ってね」
香取「まだ1月です(しかし色々あったな…………)」

瀬戸「ふっ!」

ガキッ!
香取「またか」

1軍入りしての香取は凄まじく毎年タイトル争いにも加わっていたが9年目の1993年だけは違っていた。
神代「香取さんらしくないプレーが多いですね」
織田「ここまで調子良かったしこう言うシーズンもあるさ」
神代「そうですか? 俺には無理してケガに耐えているしか見えないですが」
織田「(ちっ!)ここだけの話だ。恐らくだがあいつはひざの辺りを故障しているな」
神代「それで具合は?」
織田「かなり悪いらしく。医者には引退を宣告されたらしい」
神代「そんなに悪くてプレーしてたんですか!?」
織田「言って聞く様な奴じゃないって事はお前も知ってるだろう」
神代「分かっています。俺だって1年目は順調とは言えなかった。だからこそ必死で練習してレギュラーの座を奪った。ですが」
織田「まあ現役引退してからの人生の方が長いからな。ここで無理させたくないって気持ちも分かる。けどあいつが決めた事を俺達がどうこう言う権利なんてないんだよ!」
神代「そんな事はないです。俺達はチームです。話せばきっと!」
織田「どう話す?」
神代「それはっ!?」

冷たい織田の言葉だったが神代は何も言い返せなかった。選手として頑張ってるのに選手として諦めろなどと言うのは現役の自分にもどれだけ傷付く言葉か良く理解できていた。いや、野球しかない神代に取っては死刑宣告に近い物があるのかも知れない。
神代「(また何もしてあげられないのか)…………この事を知ってるのは?」
織田「俺とお前とあいつのかみさんくらいだろう。あいつは誰にも話してないらしくかみさんも医者から聞き出したらしい。それで俺は気になってかみさんに聞いた」
神代「香取さんの奥さんはなんて?」
織田「…………『例えどんな結末を迎えようとも私はあの人の味方です』だそうだ」
神代「そうですか、今年も息子さんの為にって頑張ってたのに」
織田「まだ2つか3つ、これから現役の自分を見せたいって理由もあるんだろうな」
神代「しかし監督も知らないんですか」
織田「知ってたとしたら引退を進めるか、ケガを治す事に専念させるだろう。簡単に誰かに話せる内容じゃないくらいはお前も分かるだろう」
神代「そうですね(俺には壊れると知ってて見ているくらいしかできないのか!)」
織田「俺にしろあいつにしろ今シーズンは最悪だ。お前ら若手が頑張れ!」
神代「はい!(織田さんもなんだかんだ言って香取さんを心配してるんだな。やっぱり俺達はチームだ。けど織田さんの言う通り簡単に人に話して良い事じゃないし香取さんに何かしてあげられないかな?)」

こうして香取を心配する神代だったが結末は変わる事無く悲劇は起きた。
香取「―――っ!?」
遠山「大丈夫ですか?」

翌日、香取は紅月からヒットを打ったがファーストベースを抜けた瞬間、足が止まり意識をなくすのだった。遠山も申し訳なくアウトを取ると心配して香取に話しかけるが当然返事はなく香取は病院に連れて行かれるのだった。
香取「…………ん? ここは?」

病院に運ばれてから香取はひざの手術を行われた。まだ麻酔が効いているらしく香取の意識はハッキリしないらしい。
遥「病院よ!」

そこにいたの香取の妻の遥だった。眼が赤くなっているのを見て香取は自分の状況を理解して行った。
香取「そうか…………涼もいるのか」
遥「当然よ。私達は家族なんだから!」
香取「悪かったな。秘密にしてて」

秘密とはひざのケガの事である。香取も秘密を持ち続ける事に罪悪感を感じていたらしく申し訳なさそうに謝罪する。
遥「知ってたわよ!」
香取「なっ!?」

当然ながら香取は驚く。そして遥はさらにたたみ込むかの様に話を続ける。
遥「ついでに言うならチームメイトの織田さんも心配して私に相談しに来たよ。それにこの病院はあなたの主治医のいる病院よ!」
香取「………………」
遥「まあ一言私に相談してくれても良かったと思うけどね。けど私が同じ立場なら」
香取「いや俺が悪かった。結局泣かせてしまったんだからな。本当にすまない」
遥「それと…………」

遥は大事な話をしようとするがなかなか話せないのか口を閉ざしてしまう。
香取「この状況で良い事なんて何もないって事くらい分かってる。ハッキリ言ってくれ。言えないのなら他の人に聞く」
遥「良い事もあるわよ。たくさんの人があなたのお見舞いに来てくれたよ。監督さんやチームメイト、友人、両親とね!」
香取「そうか、後でお礼言わないとな。それで?」
遥「まずあなたのひざだけど、手術は成功して日常生活には問題ないって…………ただ」
香取「…………選手としては再起不能か」

当然、香取の声には力がなくその声色には絶望がありありと浮かんでいた。
遥「………………」
香取「すまん。続きを?」
遥「…………うん。監督さんは凄くショックを受けてたかな」
香取「無理もないか、監督には特に心を込めて謝罪しないとな」
遥「それ少し違うと思う」
香取「?」
遥「監督さんはあなたが倒れたのは自分のせいだと思ってる。それは1人の選手ではなく1人の人間としてあなたを想っているからだと思う」
香取「…………そうだな。あの人はそう言う人だ」
遥「それで今後の事をあなたと話し合いたいと言っていたわ」
香取「今後か(野球しかない。俺に何ができるってんだ!)」

香取は表面場、普通の顔を装っているが心の中はかなり荒れていた。
遥「頑張ろう!」
香取「ああ」

うなずく物の香取の声に力はなかった。その後、数々のお見舞いも来るが香取は必死にリハビリを続けていた。
香取「ふう(リハビリはかなりきついな。けど頑張らないと!)」
織田「よう!」
香取「織田さん!?」

遥から織田も自分のケガの事を知っていると聞いたが織田が病院に顔を出したのはこれが最初である。
織田「幽霊でも見たかの様な表情だな」
香取「そんな事はそれよりケガの事を黙っててくれてありがとうございます」
織田「面倒事が嫌だっただけだ。勘違いするな」
香取(だったら家まで来て聞き出すなんて事はないだろうな)

正直、寡黙で無愛想な織田は香取も苦手としておりそんな人がこんなに心配してくれてる事は素直に嬉しく思うのだった。
織田「(ったく他の見舞客に会いたくないから1ヶ月近くかかって来たのに)泣く奴があるかよ」
香取「え?」

織田の指摘で香取も知らず内に涙を流していたのに気付く。
織田「俺にはお前の考えてる事が分からん?」
香取「俺もです?」
織田「なんだそりゃ?」

香取にしろ織田にしろ泣いていた理由は分からなかった。ただ悲しいから流れていたと言う訳ではなさそうだった。
香取「すみません」
織田「まあ良い。今日の本題はなんでバッティングコーチの依頼を断ったかだ」

野村監督は今後香取をバッティングコーチとして頑張ってもらう様に頼み込んでいたのだった。香取は性格的には織田と同様問題はあるが2人共チームメイトの信頼は厚いとコーチ業を勧められたのだった。
香取「人に教えるなんて俺には無理です」
織田「バッティングの相談には乗ってるのにか?」
香取「勉強の手伝いをするのと教師として教えるのとは違いますから」
織田「まあな。けどこれは監督だけでなく神代達の提案でもあるんだぞ」
香取「え?」
織田「神代もお前のケガの事に気付いてたんだよ。それで何かお前の為にできないか必死で考えてたらしい。それがコーチ業だよ。他のチームメイトも必死に頼んだらしいぜ。人望があるじゃないか一匹狼さん!」

一匹狼とは香取が入団した頃に呼ばれていた名前である。その名の通り香取には協調性がなくチームの雰囲気を悪くしていた。実力もまだ1軍クラスではないと言う事もあるが4年間2軍にいた大半の理由はそれだった。
香取「今も昔も俺は変わっていません。断ったのは俺は人に物を教える様なうつわではないと自覚しているからです!」
織田「自己管理もできず引退するからか」
香取「その通りです!」
織田「監督やあいつらはお前が指導者としてのうつわだと思っている。そしてお前はうつわじゃないか、どっちが正しいんだろうな?」
香取「それは?」

思いも浮かばない切り返し方に困惑してか香取は言い返すことができなかった。
織田「中途半端は嫌いなんだろう。やって見れば答えは出るぞ!」
香取「ずるいです」
織田「ふう、じゃあな」
香取「え?」
織田「お喋りは苦手なんだ」

織田は寡黙で無愛想だがその力は誰もが認めており教えを請う者もいた。その織田は香取に指導者としての才能があると思い柄でもないがおせっかいを焼いた。自身もそろそろ引退が近く他人事とは思えないと言う理由もあった。
香取「帰ったか」
遥「何しているの?」

入れ違いに戻って来た遥がたたずんでいた香取を心配そうに見ていた。
香取「いや、なんと言うか心の中を見透かされた」
遥「うーん? さとりにでも会ったの?」
香取「いや(本人が聞いたら無茶苦茶怒りそうだな)監督が持って来た話だけど、もう少し考えて見る事にしたんだ」
遥「うん。あなたの人生なんだからあなたの好きにすれば良いと思う!」
香取「いや、俺達の人生だよ。これからも波乱はあるかも知れないけど俺に付いて来てくれ!」
遥「いまさら何言ってるんだか」
香取「それもそうだな」

それから香取は合っているかどうか確かめる為にもまずやって見ようと決意し一度断った事への謝罪とこれからの感謝を監督に伝える事になった。
野村監督「ベテラン勢が衰えているせいか打率も下降した。それでも今年は3位だったしお前がジャイアンツを強くして来年こそ優勝だ!」
香取「はい!」

遥「どうしたの?」
香取「ん? あれから色々あったなと思ってな」
遥「今までの人生と比べると短い時間だけど、あなたには誰より長く感じたんでしょうね」
香取「君もだろう」
遥「ええ。けど一生付いていくから!」
香取「ああ!」

香取の導入に当たって1994年の読売ジャイアンツは1位ともちろん香取だけの実力ではないがとにかく周囲から指導者として絶賛されるのだった。
伴「ラスト!」

ズバ―――ン!
柳生「また負けてしまった!?」

日本シリーズでも勝ち上がりジャイアンツは日本一へと輝いた。シリーズMVPを獲ったのはエースの伴だった。
伴「優勝できた理由? それはもちろん香取コーチのおかげでしょう!」
香取「は?」

伴はピッチャーだ。自分は指導もしていないのに何故自分のおかげなのだと言うのだろうかと香取は疑問に思った。
伴「チーム一丸打って良し守って良しと香取さんの1年目のお祝いは日本一って決めてましたから!」
香取「…………あいつら本当にバカだな気付かない俺はもっとバカだけど」
伴「シーズンMVPですか? うーん、欲しいですけど、こればっかりは自分で決められませんからね! 後輩の神代、橘と良い成績ですからね。えっ? 神代は先輩じゃないかって俺の方が年上なんですから俺が先輩で良いんですよ!」
マヌエル「相変わらずマウンドとこっちじゃ別人見たいですね」
橘「俺はこの2年で慣れましたよ。妹尾さんが昨年悪かったせいか今年からエースって言われてますし一番出世したのは伴さんですかね」
野原「首位打者獲った奴のセリフじゃないぞ」
織田「まったくだな」
橘「っと織田さん、お疲れ様でした。インタビューは良いんですか?」
織田「どうせ引退の時に色々聞かれるんだ。それに」
橘「それに?」
織田「いや…………まあ有終の美を飾って引退できたしお前らには感謝してるよ」
神代「いえ。それは織田さんのおかげですよ。伴さん達もそう言ってますから」
織田「結局はみんなの力か、まあ優勝は何回経験しても良い物だし来年も頑張れよ!」
全員「はい!」

織田もこうして引退して行った。キャッチャーとしてMVPを獲得するなど彼の貢献も絶賛されるのだった。
遥「日本一おめでとう!」
涼「日本一! 日本一! 日本一!」
香取「涼は意味が分かってて喜んでいるのか?」
遥「さあ? でも日本一になって嬉しい見たいだし良いんじゃないの!」
香取「そうだな」
遥「それで今年1年間どうだったの?」
香取「昨日のインタビュー見てたんなら知ってるだろう?」

伴の発言のせいか香取までお立ち台に上げられると散々インタビューされるのだった。しかし香取自身も2度目のシリーズMVPのお立ち台と嬉しい思いをすると不満はなかったらしい。
遥「あなたから直接聞きたいのよ!」
香取「やれやれ当然と言うか最初はやっぱり不安だったよ。俺はお世辞にも人が好む性格とは言えない。こんな俺が人に教える事ができるのだろうかとね」
遥「ふむふむ。それで?」
涼「ふむふむ。それで?」
香取「えっと…………俺自身も慣れてないせいか色んな人に世話になったな。特に神代や橘には教えてて面白かったかな。天才過ぎて不満がない訳でもなかったが」
遥「ふむふむ。それで?」
涼「ふむふむ。それで?」
香取「まったく特に世話になったのは監督だな。慣れない俺に色々気を使ってくれた。それと先輩達に教えるのは気が引けたがみんな親切丁寧に俺の指導を受けてくれたよ(ちょっと言い方がおかしかったかな?)」
遥「ふむふむ。それで?」
涼「ふむふむ。それで?」
香取「はいはい。君達にもいっぱい助けられましたよ」
遥&涼「えへ〜♪」
香取「だらしない笑みを浮かべるなよ。本当にそっくりだな」
遥&涼「親子だもん〜♪」
香取(こいつらの為にも…………いや、俺達の為にこれからも頑張らないとな!)

香取望(かとりのぞみ)、1984年3球団競合で1位指名されて読売ジャイアンツに入団する。

名門無明実業で2回全国制覇を達成する。発展途上と言われる物のバッティングレベルは高かったが4年間はチームの問題からか2軍生活だった。

そして5年目同期も何人か大学から入団し刺激されてか1年目から5番三塁手として活躍しベストナインと日本シリーズMVPを獲得する。

その後も4番として活躍するが1993年にケガに悩まされてか成績が下降し突然引退をすると現役生活9年と彼は若く散るのだった。

しかし通算打率.309、134本塁打、420打点とバッティング方面と精神力は凄まじく今でも彼の引退を惜しむファンはたくさんいる。

しかし選手から指導者に変わると彼のプロ野球人生はまだまだ終わらない。

これは1人の選手の物語、例え選手として終わろうとも人としての人生は続いて行く。